既婚者子持ち(確定)がDP十段を目指すブログ。
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メガネのグラウンド・ゼロ
世の中のマイ・ペースの大半は、ただ遅いだけ。
■絶対戦士ヌル(本番)
チャールズ・サイフェ(林大訳)『異端の数ゼロ-数学・物理学が恐れる最も危険な概念』を読みました。非常によかったです。
以下は感想。
■絶対戦士ヌル(本番)
チャールズ・サイフェ(林大訳)『異端の数ゼロ-数学・物理学が恐れる最も危険な概念』を読みました。非常によかったです。
以下は感想。
僕はメガネをかけているので、たまにコンタクトレンズ屋のティッシュ配りの標的になります。「メガネをかけている=目が悪い」という連想からだと思われますが、貰う度に、「俺はそんな生半可な気持ちでメガネをかけてんじゃねぇ!」と思います。思うだけです。口に出してはいけないこと、世の中にはたくさんあります。
僕がメガネをかけているのは、まぁ、目が悪いからなんですが、メガネをかけなくても生活には困らないくらいの視力なので、必ずしもかける必要はないと思っています(運転は出来ない)。それでもなぜ、僕がメガネを、コンタクトレンズではなく黒ぶちのメガネをわざわざかけているのかというと、それはアウト・ソーシングです。
ここで、井上雄彦さんの名作バスケットボールマンガ、『SLAM DUNK』について考えてみましょう。『SLUM DUNK』でメガネといえば、連想されるのはただ一人、湘北高校バスケットボール部の副キャプテン、小暮公延です(厳密にいえば、『SLAM DUNK』のメガネにはもう一人いて、「これで桜木はファウル4つだ…!」という台詞が有名ですが、名前が覚えだせないので割愛。藤真は覚えているんだけど)。
この小暮君、陵南高校戦にて貴重なスリーポイント・シュートを決めることで有名ですが、「小暮公延」という名前よりもそのニックネーム、すなわち「メガネ君」と読んであげる方が、ほぼすべての『SLAM DUNK』読者のしっくりくるところでしょう。
非常に個性の際立つ湘北高校のバスケットボール部員の中で、優等生キャラしか大した特徴を持たない小暮くんが非常に良い味を出していたのは、やはりメガネ君というニックネームに拠るところが大きいと言わざるを得ません。ここで一つ考えてほしいのは、メガネ君がメガネをかけていなかったならどうなっていたのだろうか、ということです。
メガネ君がメガネをかけていなかったなら、彼はメガネ君ではなかったでしょう(当たり前)。メガネ君がメガネをかけていなかったなら、陵南戦でスリーポイントを決めたとしても、3年間の思い出が込み上げてくる感動的な回想シーンを形作ることは出来なかったでしょう。さらに言えば、その後の陵南・田岡監督の名台詞、「あいつも3年間頑張ってきた男なんだ。侮ってはいけなかった…」、ひいては、「敗因はこの私」もなかったことでしょう。すなわち、メガネ君のアイデンティティは、そのメガネにあるわけです。
言うまでもなく、メガネはメガネ、落ちてしまった視力を矯正させる道具であるので、体の一部ではありません。この道具を使って、特徴を出し、アイデンティティを出す。すなわち、特徴の外部委託、アウト・ソーシングです。これが僕の狙うところ。ここまで書いてきて、思います。メガネ君の話、長いです。
僕の顔には、特徴がありません。悲しいですが、特徴がありません(大事なことなので)。しかし、メガネをかけるとどうでしょう。かけただけであら不思議、一瞬でエンド(僕のことです)は属性:メガネ。陰で「あのメガネがさぁ」とか言われること間違いなし、どんな特徴のない貴方でも、かけただけで大変身、魔法のアイテム、その名もメガネです。メガネをかけていて、本当に良かった。ありがとう、メガネ。まぁ、メガネをかけているのは目が悪いからなんですが。
要は使い方です。目が悪いからメガネをかけているのか、特徴を出す為にメガネをかけているのか、その使い方を意識するだけで、モノに対する見方、姿勢が変わってきます。全て道具は使い方。仕事でも、日常でも、人間でも、モノでも、使い方は常に意識しなければいけないと感じます。
そのようなことを、『異端の数ゼロ』を読んで思いました。無と無限を内包し、西洋思想の根幹であったアリストテレス哲学を破壊、哲学・数学・物理学のパラダイムを揺るがし続け、宇宙の創生と終末の鍵となる概念、それがゼロです。全て道具は使い方、ゼロという数字・概念から何を導くかは、ゼロを用いる我々次第です。メガネと一緒です、とはなかなか言いにくいですが。スケールが違いすぎる。
数学の専門書ではなく、ゼロを取り巻くドラマがダイナミックに表現されているストーリー・テリング系ノンフィクション。数学的バックグラウンドが無くても楽しめる良作です。サイフェの本はもう一冊あるようで(『宇宙を複合する』)、手にいれたくなりました。サイモン・シンのノンフィクションに並ぶ傑作だと思います。良い本を読みました。
というわけで、来週以降の通勤お伴はジョージ・ジョンソン『量子コンピュータとは何か』。さわりだけ読みましたが、面白そう。今、科学ノンフィクションが熱い。
僕がメガネをかけているのは、まぁ、目が悪いからなんですが、メガネをかけなくても生活には困らないくらいの視力なので、必ずしもかける必要はないと思っています(運転は出来ない)。それでもなぜ、僕がメガネを、コンタクトレンズではなく黒ぶちのメガネをわざわざかけているのかというと、それはアウト・ソーシングです。
ここで、井上雄彦さんの名作バスケットボールマンガ、『SLAM DUNK』について考えてみましょう。『SLUM DUNK』でメガネといえば、連想されるのはただ一人、湘北高校バスケットボール部の副キャプテン、小暮公延です(厳密にいえば、『SLAM DUNK』のメガネにはもう一人いて、「これで桜木はファウル4つだ…!」という台詞が有名ですが、名前が覚えだせないので割愛。藤真は覚えているんだけど)。
この小暮君、陵南高校戦にて貴重なスリーポイント・シュートを決めることで有名ですが、「小暮公延」という名前よりもそのニックネーム、すなわち「メガネ君」と読んであげる方が、ほぼすべての『SLAM DUNK』読者のしっくりくるところでしょう。
非常に個性の際立つ湘北高校のバスケットボール部員の中で、優等生キャラしか大した特徴を持たない小暮くんが非常に良い味を出していたのは、やはりメガネ君というニックネームに拠るところが大きいと言わざるを得ません。ここで一つ考えてほしいのは、メガネ君がメガネをかけていなかったならどうなっていたのだろうか、ということです。
メガネ君がメガネをかけていなかったなら、彼はメガネ君ではなかったでしょう(当たり前)。メガネ君がメガネをかけていなかったなら、陵南戦でスリーポイントを決めたとしても、3年間の思い出が込み上げてくる感動的な回想シーンを形作ることは出来なかったでしょう。さらに言えば、その後の陵南・田岡監督の名台詞、「あいつも3年間頑張ってきた男なんだ。侮ってはいけなかった…」、ひいては、「敗因はこの私」もなかったことでしょう。すなわち、メガネ君のアイデンティティは、そのメガネにあるわけです。
言うまでもなく、メガネはメガネ、落ちてしまった視力を矯正させる道具であるので、体の一部ではありません。この道具を使って、特徴を出し、アイデンティティを出す。すなわち、特徴の外部委託、アウト・ソーシングです。これが僕の狙うところ。ここまで書いてきて、思います。メガネ君の話、長いです。
僕の顔には、特徴がありません。悲しいですが、特徴がありません(大事なことなので)。しかし、メガネをかけるとどうでしょう。かけただけであら不思議、一瞬でエンド(僕のことです)は属性:メガネ。陰で「あのメガネがさぁ」とか言われること間違いなし、どんな特徴のない貴方でも、かけただけで大変身、魔法のアイテム、その名もメガネです。メガネをかけていて、本当に良かった。ありがとう、メガネ。まぁ、メガネをかけているのは目が悪いからなんですが。
要は使い方です。目が悪いからメガネをかけているのか、特徴を出す為にメガネをかけているのか、その使い方を意識するだけで、モノに対する見方、姿勢が変わってきます。全て道具は使い方。仕事でも、日常でも、人間でも、モノでも、使い方は常に意識しなければいけないと感じます。
そのようなことを、『異端の数ゼロ』を読んで思いました。無と無限を内包し、西洋思想の根幹であったアリストテレス哲学を破壊、哲学・数学・物理学のパラダイムを揺るがし続け、宇宙の創生と終末の鍵となる概念、それがゼロです。全て道具は使い方、ゼロという数字・概念から何を導くかは、ゼロを用いる我々次第です。メガネと一緒です、とはなかなか言いにくいですが。スケールが違いすぎる。
数学の専門書ではなく、ゼロを取り巻くドラマがダイナミックに表現されているストーリー・テリング系ノンフィクション。数学的バックグラウンドが無くても楽しめる良作です。サイフェの本はもう一冊あるようで(『宇宙を複合する』)、手にいれたくなりました。サイモン・シンのノンフィクションに並ぶ傑作だと思います。良い本を読みました。
というわけで、来週以降の通勤お伴はジョージ・ジョンソン『量子コンピュータとは何か』。さわりだけ読みましたが、面白そう。今、科学ノンフィクションが熱い。
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COMMENT
No Title
おもしろそうな本だね!エンドさんはノンフィクションも読むんだね。
No Title
概ねどんなジャンルでも読みますが、いちばん読むのはマンガです。
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